救貧院とは

The Situation

『出られないふたり』がいるところ


アイルランドの救貧院, photo©️ELICAMIWA

『出られないふたり』The Place の記事で、キャラクターたちは救貧院にいるのだ、とお伝えしました。その救貧院とはいったいどんなところなのでしょう。アイルランドの救貧院博物館を訪ね、話を伺ってきました。

そのまえに、ちょっとイギリスの事情を話しておきましょう。イギリスだけじゃない、ヨーロッパ中の、です。

キリスト教の教え、貧者を救え!

キリスト教で素晴らしいのは助け合いの精神です。それが発展すると、助けられる人が貧しい人を助けなくては、という考え方になります。中世の騎士道で、弱い女性を男性が守るのだ、という考え方もその一環。

で、働けない人や、家がない人を救う場所を作ろう、と、イギリスでは10世紀の頃から、国王みずから、斯様な建物を作ったり、あるいは病院がその役目を果たしたり、あるいはキリスト教の修道院の付属施設として作られたりしました。

じつに崇高な精神と、うるわしい賛助の気持ちで、これらは建てられたのです。そもそもは。そう、そもそもは。

ところがですよ、それを建てる人の精神は崇高だったとしても、それを運営する人の精神はそれほどでもなく・・・(いまの日本でも、保育園の虐待や高齢者施設での虐待と同じ構図)

おまけに「働かざる者食うべからず」がキリスト教にもありまして(怠惰の罪)、「働く場所がないなら働く場所を手配してやろう、そして初めて食えるのだぞ」の理念で、悲惨な労働が課せられました。

救貧院に入るくらいなら死んだほうがマシ、と言われるくらい、ひどいところになってしまいました。

と、そのあたりのことは、三輪えり花も、イギリスの19世紀の小説家チャールズ・ディケンズの『オリヴァー・ツィスト』や、彼自身が実際に子供用の救貧院に入れられていたことなどから、知識としては知っていました。が、まさか監獄ほどではないでしょう?と思っておりました。

それを踏まえて、実際に訪ねてみましょう!

もとはアイルランド全土に多数存在していた救貧院ですが、1921年にアイルランドの南半分が英国から独立した際に廃止されました。残った建物は、そのまま病院になったり、大学になったり、あるいは軍の施設になったりしています。が、一軒だけ、一般の人のために博物館として開放されている建物があります。それが、ゴールウェイ県のポーツムナにある「アイリッシュ・ワークハウス・センター」

壁を入ると駐車場

雨が上がって本当に良かった!

二棟、並んでいますね。
手前が健康で働ける人用の施設。奥は病院だそうです。
『出られないふたり』のふたりは、病院に入っています。

私たちが入れるのは左の棟のみ。左端に見える大きな扉から入ると・・・

このホール。

一応、奥に暖炉がありますね。床も壁も暖炉も建設以来、そのままです。

壁が真っ白で綺麗ですね、と思ったら、伝染病を防ぐために、石灰が効果があるとかで、全部石灰で塗るのだそうです。天井は、現代の暖房のために後から作りつけたものでしょう。

壁にかかっている絵は、現代作家による展示です。イングランド支配下にあった頃は、現実を描くなんて許されませんでしたから。良かったら、アップにして絵もご覧ください。雰囲気がわかると思います。

ひとりものの浮浪者や孤児ももちろんいました。が、1840年代の大飢饉では、家族全員が地代を払えずに路頭に迷ったのです。ですから、家族で救貧院へやってきました。

家族は、入り口にある、このホールで、男はこっち、女はこっち、子供はこっち、とバラバラに引き裂かれ、それぞれ別の棟に収容されました。

えっ、ま、まるでアウシュビッツ・・・。ガス室はさすがにありませんが、家族が引き離されるなんて、このホールに響いた嘆きの声を想像するだに心が締め付けられます。

この向かって右手にドアがありまして、そこが受付です。そこで14時開始のツアーに参加します。

受付の部屋は、この救貧院の維持のためにお金を出している地主たちの会合の場所でした。表に面した窓は広いのですが、裏に面した窓は高いところにあります。

「裏は、収容者たちの労働の場でした。収容者たちの悲惨な様子を地主たちが見なくて済むように、窓が高くしてあるのです」

もちろん、同時に、収容者たちが、地主たちが暖かい部屋で紅茶を飲みながら、いかにここに払うお金を少なくできるかをにこやかに話し合っている図なんか見ることはできなかったわけです。

では、左のドアからその「裏」へ行ってみましょう。

おお、晴れていると、アイルランドの緑は実に美しいですね。

ここは女性が収容されていた棟です。

塀を隔てた向こう側が、男性の収容されていた棟。さらに隔てて、子供を収容した棟がありました。

3歳未満までは母親と一緒ですが、3歳の誕生日を迎えるや引き離され、あとは家族の誰1人、一生会うことはありませんでした。

なぜなら、すべての棟が、高い高い壁で仕切られ、全ての窓は、外を眺められないくらい高いところにあり、すぐ下で作業しているかもしれない妻や夫や子供を見ることすらできないように作られていたのです。

なんで?なぜ? 英国政府は、どうしたらそんな非人道的なことを思いつけるのでしょう?どうしてそこまでしなくては、と思えるのでしょう? 私の大好きな英国の影の顔・・・。これまで三輪えり花は英国の立場でしか物事を見てこなかったのだ、とつくづく思いました。

では、女性棟の中庭を見てみます。男性棟も同じです。

上の緑の美しい写真の左端には、この石造りの建造物があります。元々は屋根がありましたし、手前にも壁と入り口がありました。なんだかわかりますか?

刑罰室である独房と、トイレです。

右の二つは石のベッドが見えますね。どれほど寒く暗かったことでしょう。

左側の、下部がレンガを縦に並べてあるところ。アップで見ると、その下は、いわゆる「ポットン」です。水なんかありゃしませんから、溜まる一方。収容者の誰かが掃除します。

一方、監督官のトイレとシャワーもここにありました。監督官だけはお湯が使えたのです。

収容棟に入ってみましょう。

階段も壁も、壁に塗られた色も、すべて当時使われていたときのままです。

1921年に使用をやめた後も、軍の施設や病院として、そして現在は博物館として、ずっと使われ続けてきた建物です。

監督官の部屋。

鏡、暖炉、戸棚。一応のものが揃っています。壁の青は、ただ白いより気持ちが明るくなるから、と気に入って塗っていたものだとか。

ベッドと、ベッド下の「おまる」が当時を物語ります。

で、肝心の収容者は、というと、こちら。

板の間に、直接粗末なマットレスが置かれただけ・・・。

畳に布団の我々にとっては、合宿の雑魚寝じゃんか、程度に思うかもしれませんが、ベッド文化の彼等にしてみたら、床から寝床を高くしないで寝るのは、動物だけなのです。そう、動物同然。

マットレスの中身は藁。

本当はぎっしりと敷き詰めたいところですが、直接触ると伝染病が蔓延するから、と、最低限60cm程度を開けて、敷かれました。また、空気の流れが悪いと伝染病が蔓延するから、と換気口だらけで、よく見ると、マットレスの下の板には小さな穴が空けられているほど。そして天井の換気口とで、奥には小さな暖炉がありましたが、それはもう冬の寒さの厳しいことと言ったら!

窓はありますが、昼はこの部屋にはいられないし、夜は暗くて外は見えないので、やはり別の棟の人たちを見ることはできませんでした。

ドアはもちろん、外から鍵がかけられます。

この写真は、ツアーガイドさん(おそらく歴史の研究者)が、鍵の仕組みを話してくれているところ。

本来の天井の様子もわかりますね。

石を割るだけの、無意味で単調な重労働が男性の「仕事」でしたが、女性はやや意味のある仕事、洗濯や掃除をしました。ここで修行を積めば、どこかのお屋敷で女中として雇ってもらえるかもしれない望みも持てました。

一番人気は、ここ。

洗濯部屋です。火を沸かしてお湯を使うので、冬でも暖かいのです!

あとは展示室になっています。

当時使われていた、食器とも言えない食器とか・・・

棺桶の持ち手とか・・・

大小の靴とか(子供用・・・涙)

全体像がよくわかる、ある救貧院の模型も展示されていました。

拡大すると、左に Femal Ward, 右に Male Ward と書いてあります(女性棟、男性棟)。

人の模型もあって、どんな感じだったかわかります。

手前と奥に、仕切られた作業場。

中央にはチャペルもありました。

教会のミサの時間だけは、唯一皆が一緒に集まれる時間だったそうですが、それでも、その中で、見えないように仕切りがあったとか。とことん人間を痛めつけていますね。

なぜ、こんな酷いところなのかというと、

「居心地が良いと、大勢が押し寄せるから」

という考え方だったのです。

よって、

食べ物はできるだけ栄養もなく貧しくほとんど水に塩だけ。

重労働で、給料はほとんど無い。家族とも離れ離れ、という最も悲惨な状況が、確固たる理由と目的を持って、意図的に作り出されていたのですね。もうこれは刑務所と変わりありません。

刑務所と違う唯一の点は、入るのも出るのも自由だったこと。

でも、出ても、家ごと取り上げられてしまったわけなので、どこにも行き場がない。結局、ここに戻るしか無いのでした。

いや、もうひとつだけ、選択肢がありました。

アメリカです。

英国政府は、アメリカへの旅費を全て賄ってくれて、とはいえ、一番安い3等船室・・・はい、『タイタニック』のアレです。レオナルド・ディカプリオが演じた、3等船室のアイルランド人は、救貧院に行くくらいなら、と新天地アメリカを目指した大量の大飢饉難民のひとりだったのです。

もうひとつ、行き先がありました。これはもっと悲惨です。

オーストラリア。

オーストラリアもイギリス領でしたね。

しかも、英国の刑務所に入りきらない軽犯罪者を大勢送り込んでいた上、冒険心旺盛な(つまりちょっと野蛮ぽい)地主希望者や開拓心旺盛な(つまりちょっと詐欺師っぽい)商人らなので、ほとんど男しかいない世界。

そこに人口を増やすために、救貧院から少女を送り込みました。

これはその子たちの格好と、その荷物の模型です。

三輪えり花、何も知らずに、男たちの欲望と子を産むための道具のように送り込まれた少女たちを思うと、涙を抑えられませんでした。

最後に、美術展示室で、解散です。

上記解説の多くの部分は、三輪えり花が、『出られないふたり』を演出するうえで、俳優たちから受けた質問も含めて、あれやこれや聞き出したものです。

知識豊富なガイド様、お名前も聞けませんでしたが、ありがとうございます。

また、美術展示室には、大飢饉時代の農民を、泥炭に埋まって真っ黒に石化した木から造形しているアーティスト Kieran Tuhoy さんの作品を拝見。

どれも胸を締め付けられる気持ちになります。

FBに彼のページがあるのでよかったら訪問してみてください。

こんなに悲惨な救貧院。

『出られないふたり』は病棟にいる設定なので、ベッドがあり、仕事をしなくて良い状況です。でも、病気じゃ無いとそこを追い出されてしまいます。病気の方がいいなんて、これまた悲惨です。

が、このキャラクター2人は、実は・・・

台本の初版本も展示されていました。
この体験は俳優たちにも写真を見せながら話しました。そして、演技にも演出にも活かされています。

*写真は全て、三輪えり花撮影 ©️ELICAMIWA2022


この記事はいかがでしたか?辛く苦しい状況の真っ只中にいるキャラクターたちの、その力強さと明るい前向きな生き方をぜひ劇場で体験していただければと思います。演じる俳優たちのコメディ・センスが楽しくて、稽古場はすでに笑いの渦です。
(2022年11月記述。公演は全て終了いたしました)

written by 三輪えり花(英語圏部会 副部会長&運営委員長。演出家・俳優・翻訳家)


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA